死への課程。(2002.10.11)

自分は何のために生きているのか?
 この問いを一体何回くらい自分自身に問いかけただろうか。
 ある本で北野武が、「生きることを考えるということは、死を考えなければならない。死とどう立ち向かうかで、どう生きるかが見えてくるんだ」。と言っていた。
 何度も日記にも書いてきたが、「なぜ生きているか?」は何回考えても答えが出ないので、どう生きたいかを考えようと思い直し、発想のスタートとして、「自分が死ぬ時に『ああ、この人生は幸せだった』と思うこと」を明確化した。そしてこの歳になってさらに明確になってきていることがある。正確に言うと今まで考えていたことが間違っていなかったんだと再認識した。下記は僕が6年前に書いた文章だ。

(前略)幸福な仕事を得るのは、有名企業に勤めることでも、高い給料をもらうことでもない。それはどんな人たちと出会えて、どんな人たちと一緒に仕事ができ、どんな人たちと一緒にに喜びを分かち合えるか、それが問題なのだ。会社や職種や仕事内容も言うまでもなく大切な要因だ。しかし、結局は人なのだと思う。だから僕は、いい人たちと出会って、いい人たちと一緒に仕事をして、いい人たちと喜びを分かちあうということを最大を目標として、幸福な仕事に辿り着きたいと思っている。
(1996年7月)

 今考えると、上記に書いている“仕事”は“生き方”であり、“人生哲学”である。ここに決して年商が幾らになる!とか年収を幾らにする!とか社員が何人になる!とか書いていないことこそが、僕が目指していることなんだと再確認した。グローバルダイニングの長谷川耕造社長がこう言っていた。
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「目標というと、誰もが何か具体的に示すでしょう。政治家になりたいとか、作家なら芥川賞を取りたいとか。だけどそんなのは目標じゃない。それは本当の人生哲学じゃない。そこで価値観念を選択しているんです。到達したときの5分と、その課程だけ。人生なんてあっと言う間だと実感している。その中でたかだか、小さな存在の個人がどうやって生きていくかを考えたら、自分の自我を得て生まれたからには少なくともハッピーに過ごしたい。それが僕のささやかな望みなんです。そのためにはこれからもチャレンジしますよ。そんなチャレンジの中で、たまたま僕は商売しているだけなんです」。
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 僕は人に比べ、物事を突き詰めて考えてしまうクセがある。それは僕の長所でもあり短所でもある。そういう僕が、「人生は目標を持った人だけが幸せになれる」「人生の目標は抽象的でなくてはならず、具体的であったり相対的なものであってはいけない」「目標が見つからなければ死への課程を考えるべし」ということだけは、今自信を持って言える。

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