diary

December 25, 2010

振り返って(パート2)

新たな可能性を探し求めて
会社を合併してみたものの、

結局、答えを先送りしただけだったし、
他の誰でもない、自分自身が答えを探し出さなければ
本質的な問題解決などなし得る訳がなかった。

結局、合併してからの約1年半は、
そのことを痛切に感じた期間であり、
そういう意味では、自分を見つめる良い機会でもあった。

そして、結果的に再度会社を設立したのは、
外的な要因に後押しされたことが最も大きかったが、
自分のやりたかったことがなんとなく明確になり、
応援してくださる方々に励まされて、ちょっと無謀かな?
(でも、きっとなんとかなるさ)と思いながらも、
(今しかない!)と直感の赴くままに、役員を退任して、
再び独立して会社を設立した訳だ。

ではやりたかったことは何か。
それは前回にも書いた通りだが、

もっと実態のある、
誰かのための役に立てるような
そして自分しか出来ないようなこと。

それを実践するためには、
自分が生まれてきた使命を知り、
その使命の通り生きることしかないと思うのだが、
そのためには、嫌なことをやるのは論外だが、
得意なことをやるのでもなく、自分が本当にやりたい
好きなことをやれば良いのだと分かってきた。

やりたい仕事を、
もう少し具体的に書くと、
日本と世界を繋ぐ仕事であり、
シニアの方々が幸せ暮らせるために
いろいろとお手伝いしていく仕事だ。


日本と世界を繋ぐ仕事の
具体的なイメージはこうだ。

まず発想の原点は2つ。
自分が日本人であるということ。
そして、日本には世界に誇れる
素晴らしいモノ・コトがたくさんあるということ。

日本では、高度成長期とともに拡大した
「便利さ」や「(モノの)豊かさ」という思い込みで
自分の身を守り、弱さや不安を覆い隠してきて
「本当の幸せ」に気付くことを忘れていた。

しかし、こういう状況になり、
経済はいつも右肩上がりで、給与は増え続け、
世界は成長し続けるといったことは幻想だと分かり始め、
物質的な満足や消費することの満足が幸せではないと
気付き始めた。そんな今だからこそ、その
「本当の幸せ」を知る大きなチャンスが来ている。

また、企業は、グローバリズムという名のもと、
海外マーケットに目を向け始めているが、
日本ではマーケット拡大(経済拡大)が望めないから
外需で補おうという発想ではなく、

いまこの時代、世界でも稀少な日本の良さである、
きめ細やかなサービス&ホスピタリティや、
こだわりを持って物作りに取り組む姿勢や、
成長という概念とは違う、精神的な豊かさの本質を
理解する心を海外に輸出して欲しいと思うし、
素晴らしい日本の良さを、
もっと世界の人に知って欲しいと思う。

なぜなら、自分は日本人だから。
韓国人に生まれていたら、
きっと韓国のことを考えていただろうし、
それはどこの国に生まれようが同じ話だ。
まず、自分を愛し、家族を愛し、
自国を愛することからしか始まらないからだ。

もっと言うと、自分が日本人だからということを
差し引いても、日本って本当に素晴らしいから。
(その素晴らしさを上げればキリがない程ある)

だから、日本と世界を繋ぐパイプ役を
担えるような仕事をしたいのだ。


そしてもう一つがシニアを対象とした仕事だ。
実はこちらの方がずっと本当にやりたかった仕事で、
そう思い始めたのは5・6年前くらい前だったと思う。


パート3につづく・・・・。

skmt | 02:38 | diary | Comments(0)

December 22, 2010

振り返って(パート1)

さてさて、
年の暮れだ。

なのでちょっと振り返ったりしてみたい。

1996年に会社を創業し、2000年法人化。
2008年に会社の神戸部門を北海道と東京の会社とで合併。
同じく2008年に、東京部門を基軸に別途新会社を立ち上げたものの、
やむなくすぐに売却。そして、今年2010年の6月末に(合併した)
前会社の役員を退任し、また新たに会社を作って今に至っている。

結局独立して、14年もの歳月が経ち、
本当にいろんなことが経験ができたのだが、

今思うと、やはり「いま」と「これから」のために
この14年があったような気がしてならない。

いろいろな経験をすると、
おのずと自分の志向や価値感が浮き彫りになってくる。
中でも14年間の中で、よくアタマに浮かんできたことは、

「世の中に役に立っていると、もっと実感できる仕事をしたい!」

ということだった。

企画やデザインやコピーを考えることも
クライアントにちゃんと向き合って、
様々な提案をしていくことももちろん好きだった。また、
それによってクライアントに喜んで頂いたりすることで
とてもやりがいを感じていた。

しかし、違和感を感じ始めたのはいつ頃だっただろうか。

本来はクライアントに主たる目線がいかないといけないのに、
社員が増えてくると、社員のために稼がなきゃ!と
金を稼ぐことにが目的の主になってしまっていたり・・・、

結局って我々の仕事って、世の中に
何か商品やサービスやノウハウを提供していく仕事でも、
何かを問うていく仕事でもなく、今だから誤解を恐れずに言うと、
なんかこれって虚業なんじゃないか?と思うことも多くなっていた。

だからか分からないが、
もっと実態のある、誰かのための役に立てるような
そして自分しか出来ないような仕事がしたい!
と思い始めていた。たぶん最初の創業メンバーだけの
仲の良い人だけがいた時期を終えた2004年か2005年頃の
いろんな社員が入り始めた時期からそう思い始めていた。

そしてまた同時に、悲しいかな、
最初に創業したスーパーエディションでは
もっと実態のある、誰かのための役に立てるような
そして自分しか出来ないような仕事が出来るようになるとは
とうてい思えなかった。

なぜなら、その時点で、もっと具体的かつ明確に
これがしたい!ってのが社長の自分になかったからだ。
なのに、社員を養っていかねばならないこの苦痛・・・。

だから、この現状を打破し、新たな可能性を探し求めて、
合併というリスキーな道を選択したのだ。

しかし、今更な話で
自分でもよく分かっていることなのだが、

答えを先送りしても、
答えを自分以外の誰かに求めても
結局、何も変わらないのだ。
いや、結局、何も変わらなかったのだ。

パート2につづく・・・・。

skmt | 00:03 | diary | Comments(0)

December 13, 2010

ある友人と

先週、ある友人と東京渋谷で会った。

先月神戸で飲んだ不動産会社の社長とは、
約6年振りだったし、
同じく先月、久しぶりにメールを貰った
R社時代の先輩とは約12年振りくらいだったし、
先月、開催された[坂下拓を偲ぶ会]でも、
高校卒業以来で、26年振りに会った人とかも居たが、

なんとその友人に会うのは
30年振りだった。

彼とは、神戸の幼稚園・小学校・中学校の同級生で、
(ちなみに、奥ノ池幼稚園、西舞子小学校、舞子中学校)
特に小学校の低学年の頃、とても仲が良く、
よく彼の家に遊びに行っていた記憶がある。

当時彼は、今思うと、とても普通の小学生や
中学生とは思えないような音楽の感性を持っていたが故に
ずっと強烈に記憶に留まっていたヤツで、
今でも忘れられないが、歌謡曲全盛の
小学校低学年の頃に、冨田勲の良さを教授されたり、
パンク・ニューウェーブ全盛の中校生の頃に、
元セックス・ピストルズを脱退したジョン・ライドン率いる、
PIL(Public Image Limited)が良い!とか言ってたり・・・。

そんな訳で、30年振りに会って
話をしていたら、30年間記憶の奥の奥の奥底に
しまわれていたような名前や出来事なんかが出てきて、
とても不思議な感覚に襲われた。
30年となると、もう懐かしい!
とかいうレベルじゃないからな。
なんとか言うか、うまい比喩が思い浮かばないが、
30年振りの名前を聞いた瞬間に、自動的に
あるプラグが繋がって、アタマの中の映写機に
その時代の記憶が映し出されたって感じだろうか。

とにかく、もっと色々と懐かしい人と連絡して皆で会おう!
ということになり、また楽しみが一つ増えた訳です。

skmt | 23:45 | diary | Comments(0)

November 22, 2010

偲ぶ会

このブログでも
何度か書いたことがあるが、

高校時代の軽音楽部で仲の良かった同級生が、
今年の2月、カリフォルニア州サンタローゼ郊外の
工房で、押し入られた強盗によって殺された。

数日して、アメリカで葬儀が執り行われた後、

ロベン・フォード、タック&パティ、
ボズ・スキャッグスら有名ミュージシャンによる
追悼コンサートが開催されたのだが、

日本でも是非なんらかの会を
開催して欲しい、という
彼の母親の希望により、

旧友・知人・業界関係者・親戚などの
身内だけを集めた

[坂下拓を偲ぶ会]
が先日、11月20日に神戸で行われた。

もちろん、旧友として、
また運営スタッフとして
会に参加したのだが、

あらためて大きな悲しみと喪失感、
そして、悔しさがこみ上げてきた。

近々、必ず機会を作って会おう!
と互いに言ってた一昨年にでも、
すぐ会い行けばよかった。

今となっては
何を言っても辛さがつのるだけだ。
冥福を祈るしかない。


会には総勢100名ほどが参加したのだが
中には、高校卒業以来(つまり26年振り?)
という超懐かしい面々もたくさん居て、

全然変わってないヤツも居れば、

顔見ても分からず、名前を聞いて
やっと思い出すヤツも居れば、

悲しいかな、顔を見ても分からず、
名前を聞いても分からないヤツも居た。
(向こうは覚えているとなんとも申し訳ない)

この会をきっかけに、
多くの旧友との交流も再開しそうで、
それはそれで良かった。

まったく拓のお陰だ。

それこそ、昔、
拓の家は溜まり場で
いろんなヤツが居て、
いろんなヤツ同士が知り合いになり
仲良くなっていったもんだったから・・・。

昔みたいに
懐かしい旧友たちが集まって、
拓もきっと喜んでいただろうなぁ。

R0015717.JPG
会場であるこのホテルは、拓夫婦が結婚式初夜を迎えたホテルでもある。

R0015721.JPG
享年43才。世界的ギタークラフトマンとして著名であった坂下拓の遺影。

201011220047000.jpg
会場で配られた、彼の特集が組まれている音楽雑誌。


skmt | 00:42 | diary | Comments(0)

October 28, 2010

死に様が生き様

先日、妹の旦那の父親が亡くなった。


聞けば、実はその妹の旦那本人が、
突如ある病気を患いすぐに手術を行ったという。
つい先月のことだ。

手術はしたものの、
「治ったのは奇跡だ」と医者が言うほどの
危篤な状態であったらしい。

ところが、数日も経たぬ内に、
その旦那の父親が同じ病気を患ってしまった。
しかし、今度は奇跡は起こらず、
そのまま亡くなってしまったのだ。

まさに、自分の命を引き替えに
息子の命を長らえたとしか思えない、
同じ病気で、そして同じタイミング。

「父が呉れた命です。
 大切にして生きて行きたいと思います」

と喪主の挨拶で言っていた言葉がじーんと響いた。

親より早く死ぬほど、
親不孝なことは無いと
心底思うのだが、

その父親が、
本当に自分の命を息子に託したのかどうか、
真実は分からないが、いづれにせよ、
自分の死をもって、大なるメッセージを
息子や娘や孫たちに残していった
妹の旦那の父親の死に様は
なんだか格好良いなと思った。

ご冥福をお祈りいたします。

skmt | 18:28 | diary | Comments(0)

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